ひとつの通過点

sakurasaku20052006-02-23

トリノオリンピックはフィギアスケートで盛り上がっているが、私の中で今日盛り上がったのがアクセス数が50000件を超えたことである。
記念にデザインを変えてみた。
思ったことを徒然なるままに書いているので、何が飛び出すか自分でもわからないが、これからもがんばろう。
5万HITを記念して今日は少し自分のことを書いてみようと思う。


生まれたときは未熟児だった。
小学校の頃は病弱でよく学校を休む子だった。
今日のさくちゃんは何位だ〜人気blogランキング
でも外面がいいから学校に行くと明るく振舞い友達も出来た。
家では一人静かにしている子だったのに。
6年生の時ははじめて児童会長という大役が私に回ってきた。思えばあれが私の人生の中で一番の大役だった気もする。
はじめての全校集会。生徒を代表してあいさつするとき緊張して、万歳三唱してしまった。
「ばんざい、ばんざい、ばんざい、ばんざい」
それも4回も。生徒たちには大うけだったが先生はかんかんだった。でも担任の先生は私を責めなかった。今でもN先生は恩師だと思っている。
中学、高校はその反動か目立たない生徒だった。
高校時代の友達といえば部活動の仲間ぐらい、クラスでは無口な男で過ごした。
私はその部(卓球班)でレギュラーにはなれなかったけれど、生涯を通じて付き合える友人にめぐり合うことが出来た。
大学に入って一人暮らしをはじめた。
私の過ごした高橋荘という名の下宿は4畳半しかなかったが居心地は最高だった。
とてもアットフォームで、大家さんを含め下宿生ほぼ全員が麻雀をし、コミュニケーションの手段は麻雀だった。私はすぐその生活に馴染み麻雀生活を送った。
でも、今思えばもっと勉強すべきであった。
私は単位のかわりに雀師という資格をもらった。
2年生になるとそうした生活に反省し、少しは部やサークルも入って交友関係を広げようとてんと二人で児童文化研究部に入った。
失敗だった。
子どもは好きだったが、当時その部は全員をコードネーム、いやニックネームで呼び合うのが慣わしであり、ウィローだの天気晴れなど理解できない名で呼び合っていた。私たちはその雰囲気に馴染めず3ヶ月で退部した。
ちなみに私のニックネームは「ギリギリ」。単位がギリギリだったから。
ほろ苦い思い出である。
でも、その頃から絵本は好きだったし、本は良く読んだ。
後輩もできた。
眼鏡をかけたその男はたとえ寝ていようが、Hなことを考えていようが、
「麻雀する?」との問いに、にこやかに「やります」とだけ答えた。
そして「あ〜」といってみなに気前良く振り込んだ。フリコミマシーンと化した彼を私たちは親しみと慈しみをこめて「フーリン」と呼んだ。
彼は今、北海道で某銀行の経営管理部で中小企業の経営を管理している。
3年生になると少しは勉強するかと思いきや、今度は自分でサークルを起こした。
卓球サークル「越後屋」。。。
私が卓球をやっていたことと、てんが悪徳商人越後屋というネーミングが好きだったという理由だけで起こしたサークル。
予想通り、はずした。
メンバーは集まらずサークル運営費を稼ぐために学祭で焼き鳥やをだすも逆に借金を膨らますという悪循環であった。
でも数は少ないが長いつきあいの友達が出来た。
密かに作家になりたくて新人賞に応募していたのもこの頃である。
勿論、結果は全て落選である。
4年になると就職活動、と考えるのが普通であるが、私は親友のD君とともに、もう一度サークルをおこした。今思うと相当あきらめが悪い性格だったようだ。
失敗は成功のもと。思い描いたことは諦めずに続けていると成功する。
カクテル」という名のサークルは七色の光を放ち、発足2年で100名を超えるサークルに成長した。
(つづく)